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2024年12月:オキナワ移住地の再訪
サンフアン移住地から、約2時間ほどで、オキナワ移住地に到着しました。
前回とは異なり、ここも周囲が青々として雨季が始まっていることが一目で分かります。
オキナワ移住地の農業の苦労
到着早々に、前回は畑のあちこちをご案内くださった比嘉徹さんが迎えに来てくださいました。「おかえりなさい」という沖縄的な歓迎のお言葉をいただき、比嘉徹さんのピックアップトラックに乗り農場へ向かいました。
まず案内していただいたのは、ゴルフ場としても使っているという、芝生の広がる草原でした。熱帯らしい燃えるような夕日が空を染め、私はしばらく夢中でシャッターを切りました。
前回の訪問時に聞いたことですが、オキナワ移住地の風景には、南米の大地の広がりの中に、どこか懐かしい「沖縄的な空気」が不思議に同居しているということです。人々がこの地で開拓する中で、形作られた景色なのでしょう。

夕日を見ながら、かつてこの地にダム建設の計画があったという話を聞きました。天水に左右される農業から脱却できるということで、移住地では大きな期待が寄せられていたそうです。しかし、残念ながらその計画は頓挫してしまいました。その後は、ダムがなくても収穫しやすく、利益率の高いサトウキビなどの作物を栽培するようになり、農業の形を工夫しながら現在に至っているといいます。
オキナワ移住地では、かつて陸稲から農地を切り開いた歴史があります。しかし、なかなか思うように収量が上がらず、牧畜に取り組んだ時代もあったそうです。その後、綿花栽培が移住地の大きなプロジェクトとして始まりましたが、急激な気象の変化により、大きな挫折を経験します。

土地を離れる人々も少なくなかったですが、作物を変え、方法を変えながら、農業を続けてきました。1980年代には大豆栽培が広がり、移住地が次第に豊かになっていく時代も迎えます。オキナワ移住地の歴史は、単に農作物の変遷というだけではなく、自然条件と向き合いながら、何度も立て直してきた人々の歩みそのものなのだと感じました。
夕食をいただきながら、この日はさらにいろいろなお話を伺いました。なかでも印象的だったのは、4年に一度、沖縄県で開催される「世界ウチナーンチュ大会」への思いです。世界各地に移り住んだ沖縄出身者やその子孫が、このときには沖縄に集います。比嘉さんの話を聞いていると、それは単なる交流イベントではなく、世界に広がった沖縄の人々が、自分たちの根を確かめ合う大切な機会なのだと伝わってきました。
ボリビアに暮らし、日本語とスペイン語を話し、南米で農業を営みながらも、彼らの心の中には沖縄との強い結びつきがある、だから頑張れるのだと思いました。移住から長い年月が過ぎ、世代が変わっても、「ウチナーンチュ」であることは、今も大切な誇りとして受け継がれているようでした。
広大な農場へ
翌朝は、夜明け前に再び比嘉徹さんが迎えに来てくださいました。そして、前回同行してくれたJICAの河内華さんも合流しました。まだ空が暗いうちに農場へ向かい、若木のサトウキビが繁茂する畑で日の出を待ちました。この日もまた、空は真っ赤な朝焼けに彩られました。熱帯の大地から太陽が昇り、サトウキビの葉に光が差し込む光景は、オキナワ移住地の一日の始まりを象徴しているようでした。

▲広大な大豆畑
その後は、大豆畑へ向かいました。地平線まで広がる畑には、大豆の新芽が整然と、どこまでも続くように生えていました。日本ではなかなか目にすることのない、大規模農業の圧倒的な広がりです。

▲比嘉徹さん:記念切手をお渡ししました
比嘉さんは、大豆はその年の降水量や気温に大きく左右されるため、「まるで博打のようなものだ」と笑って話していました。実際に、大豆は国際価格で取引され、ドル決済となるため、売るタイミングによって利益も大きく変わるそうです。自然条件だけでなく、国際市場の動きも農業経営に直結する。その話を聞きながら、オキナワ移住地の農業が、単に土地を耕す仕事ではなく、世界経済ともつながる大きな営みであることを実感しました。

▲巨大な農業機械がずらりと並ぶ
巨大な農場を再び車でしばらく走ると、農業機械を置く倉庫に着きました。壁に囲まれた広大な敷地は、かつて比嘉さんのご自宅があった場所だそうです。そこには、日本では見たこともないような大型の耕運機や農業機械が何台も並び、スタッフの方々が整備をしていました。
前回の訪問でも感じたことですが、ボリビアの2つの移住地の農業は、私が日本で想像していた「農家」という言葉のイメージを大きく超えるものでした。畑の広さ、機械の大きさ、そして経営判断のスケール。その一つひとつに、南米の大地に根を張ってきた移住者たちの苦労と歩みが重なって見えました。
大規模農業の現場を再び体験させていただいた後は、オキナワ移住地の中心部にある比嘉さんの現在のご自宅で、日本食をごちそうになりました。遠くボリビアの地でいただく日本の味は、どこか不思議でありながら、格別に味わい深いです。ここに暮らす人々にとって、日本や沖縄は日々の食卓や言葉、家族の記憶の中に今も息づいているのだと感じます。

▲ドラゴンフルーツの収穫
食後には、奥様と一緒にドラゴンフルーツの農園も案内していただきました。サトウキビや大豆のような大規模作物とはまた違い、鮮やかな果実をつけるドラゴンフルーツの畑には、移住地の農業の多様さが表れていました。趣味で栽培しているということですが、数十本の木には、無数の実が成っています。
オキナワ第一移住地を巡る

オキナワ第一日ボ学校を訪問しました。移住地の中で、日本語や文化を次の世代に伝える場です。
オキナワ移住地で生まれ育った子どもたちが、ボリビア社会の中で暮らしながら、日本語や沖縄のルーツにも触れている。その姿は、移住地を未来へつなぐ大切な柱のように感じられました。

学校を訪ねた後は、屋良商店へ向かいました。日本でいえば昭和の風情が漂うようなお店で、店内には懐かしさを感じさせる空気があります。遠く南米の地にありながら、そこには日本の地方の商店に通じる温かさがあります。
そして、新垣眞永さんのご自宅を訪ねました。新垣さんは、オキナワ移住地の歴史を語るうえで欠かせない方の一人です。これまで多くの移住者たちが歩んできた道のり、苦労、そしてこの土地への思いを、今回も静かな口調で語ってくださいました。
今回も大家族は健在で、孫の世代までが集まり、とても賑やかです。新垣さんは温かい家族に囲まれて、とても幸せそうだなと感じました。
第二移住地の水田へ

その後は、広いオキナワ移住地を車で三十分ほど移動し、水田へ向かいました。真栄城豊さんが経営する農場です。太陽はすでに中天に昇り暑かったですが、風が吹き入道雲が流される、気持ちのよい田園風景が広がっていました。

▲田植えしたばかりの水田
広大な水田には、田植えを終えたばかりの若い稲が、果てしなく続くように並んでいました。南米の大地に広がる水田という光景は、どこか不思議でもあり、同時に日本人にとっては懐かしさを感じさせるものでした。

▲少人数で広大な田園を管理している
オキナワ移住地のお米は、ボリビアで広く親しまれています。ボリビアの市場へ行くと、布袋に「OKINAWA」と記された米が量り売りされている光景を、各地で目にすることができます。それほどまでに、オキナワ移住地の米はこの国の食卓に浸透しているのです。その背景には、ここで積み重ねられてきた農業技術と、広大な水田から生み出される大きな収量があります。

▲あぜ道を4WDで豪快に走る
これから作付けをする、水の入っていない水田では、肥料のようなものを積んだ散布車が稼働していました。ぬかるみに沈まないよう細い車輪を備えた車両で、粒状の肥料を撒いているようでした。水田といっても、日本で見る小さな田んぼとはまったくスケールが異なり、作業の一つひとつに大規模農業ならではの工夫がありました。
また別の水田では、大きなホースで水をくみ上げていました。これから溜池から大量の水を引き込み、水田へ流し込むのだそうです。乾季にはなかなか雨が降らないこの地で、水という資源がどれほど貴重なものか、現場を見て改めて実感しました。

▲真栄城豊さん
水が入り、風が若い稲の上を吹き抜けていく風景は、とても瑞々しく、爽やかなものでした。強い日差しの下に広がる水田には、南米の大地の力強さと、日本から受け継がれた稲作の記憶が重なって見えるようでした。
今回は、この水田を見学した後、オキナワ移住地を後にしました。サトウキビ畑、大豆畑、ドラゴンフルーツの農園、学校、商店、そして水田。短い滞在ではありましたが、移住地の人々が長い年月をかけて築いてきた暮らしと農業の広がりに、改めて深く心を動かされました。
(つづく)
















































