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風景写真家・松井章のブログ

南米における日系移民の歴史

明治時代に始まる南米移住

日本から見ると、地球の裏にあたるはるかに遠い南米大陸に、かつて多くの日本人が移住した歴史がありました。
先人たちが苦難の末に築いた日系人の社会は、南米各国でその国の発展に貢献して、今日の日本・南米各国の関係にも大きく影響しています。
南米大陸での日本人移民の歴史を簡単に解説してみます。

国策としての移民政策

1885年は日本が本格的に海外への移住事業を開始した重要な年です。この時代は、ハワイを皮切りにアメリカ本土に毎年2万人以上の移住が約10年間続きます。10年ほどで止まった理由は、北米における日本への排日機運の高まりがありました。
この時代の日本は貧しく、増える人口を養うだけの国力が無かったので、外国への移住政策は国策として進められていました。
北米の代替として進められたのが、南米大陸への移民です。

ペルー移住


南米で最初に移住が始まったのはペルーです。
この時代のペルーでは、奴隷制が廃止されて、農園で働く労働力が不足していました。これらの農園での契約農民として、1899年に「佐倉丸」に乗った790名の最初の移民団がペルーに到着します。
最初の移民の時代は特に待遇が悪く、大変な苦労をしたそうです。多くの脱出者も出て、一部の人々はアンデス山脈を越えて、ボリビアの低地アマゾンに転住する人々もいました。

その後も国策としての移住は1923年まで続き、延べ約2万人が移住しました。農場での契約を終えた人々には、都市部に移住して、日本人の器用さや誠実さを買われて、理髪店などで成功を収める人もいました。

この時代、北米同様にペルーでも徐々に現地社会との摩擦が起き、さらに太平洋戦争の影響もあり、排日運動が起こる大変な時代でもありました。

戦後、日系2世、3世の時代になると、ペルー社会での融和が進み、日系人は各方面で活躍をしています。約100年に及ぶ日系人の歴史の中で、ペルーへの融和は徐々に進みました。たとえば、ペルー料理にも和食の要素が混じり、世界的な美食となる一助となっています。

1990年に日系人のアルベルト・フジモリ大統領が誕生したことは、ペルーにおける日系人の存在感の証と言えるでしょう。

現在、日系3世、4世の時代となり、ペルーへの融和が進む中で、日系人の正確な人数は把握されていませんが、その数は数十万人に及ぶのではと言われています。

ブラジル移住


1908年に始まるブラジル移住は、30年間ほどで約19万人に達します。移民を乗せた「笠戸丸」という船はブラジル移住の象徴として有名です。
当時、労働力が不足していたサンパウロ州に日本人移民が集中しました。特に1924年にアメリカで「排日移民法」が制定されると、多くの移民がブラジルに向かうことになりました。日本政府が補助金を出す国策移民です。
急増するブラジルでも同じように、徐々に排日機運が高まり、ブラジルにおける“黄禍論”が強まり、日本人移民は厳しい排日の時代を第二次大戦の終わりまで耐えることになります。

排日移民法に始まるアメリカの動きと連動するように、ペルーやブラジルでも起きた“排日論”は太平洋戦争が終結するまで続きました。ポルトガル語を話せない日系人が多かったことも一因であったかもしれません。

戦後、「移民」から「ブラジル市民」へと徐々に意識が変わるなかで定着・融和しながら、新たな日系人社会として団結していきます。
政治や経済、そして軍にも日系人が活躍して、ブラジル社会の発展に今も貢献しています。

今では、ブラジルにおける日系人は100万人以上に達し、サンパウロには今も日本人街「リベルダージ」に多くの日系人が暮らしています。地区の入口にある大鳥居がこの町の象徴です。

ブラジルには、「ジャポネス・ガランチード(日本人は信頼できる)」という言葉があります。ブラジル社会の中で、日本人特有の誠実さで貢献してきたことへの尊敬の言葉です。

パラグアイ移住

1934年に、ブラジルでの排日政策により移民が中止されると、パラグアイへの移民が開始されました。ボリビアとの“チャコ戦争”で疲弊した国内の復興に、日本人移民が期待されたことが始まりです。人数は約700人ほどと比較的に少なかったのは、太平洋戦争の激化が影響しているそうです。

アルゼンチン移住


アルゼンチンへの移民の多くは、ペルーやブラジルでの重労働を逃れて、陸路で密航してきました。当時のアルゼンチンは、広大な草原地帯“パンパ”を開拓するために、政府が移民に寛容であったために、ビザ無しでも受け入れられました。

ペルーやブラジルではアメリカに連動して排日運動が起こりましたが、アルゼンチンでは厳しい排日機運は無かったことで、1940年頃には約7000人の日系人が移住していたそうです。

ボリビア移住


「ペルー移住」で前述の通り、ペルーからアンデス山脈を越えて、ボリビアに渡った人々がボリビア日系人の始まりです。
当時、ボリビア東部のアマゾン地方では、世界的に天然ゴムの需要が増したことから、ゴム農園の労働力が不足してました。ゴム農園の働き手として1918年には日本人が約800人ほどいたそうです。その後、ゴム需要に陰りが見えてきますが、一部の日本人は残りました。
第二次世界大戦後、沖縄系の移民が、母国の沖縄における惨状を知り、ボリビアへの移住を呼びかけます。こうして、約250人の人々が沖縄から移住して、原生林を切り開き「コロニア・オキナワ」が建設されました。ボリビア政府の協力のもと、毎年移民が増えて最盛期には約3200人まで人口が増えました。
現在、コロニア・オキナワでは大豆を中心とした大農園を運営しています。また、同様の農園にサン・フアン移住地という日系人コロニアもあります。

「新しい時代を作る参加者」

移民事業の始まりから約100年以上の歳月が経ち、日系人の移住の歴史を知る資料はいよいよ重要になってきたと思います。
明治時代の始め、出稼ぎという形で多くの人が移住した先では、言葉にならない苦労の日々の連続であったでしょう。

日本人特有の誠実さとともに現地社会に融和していく日系人の姿を、文化人類学者の梅棹忠夫氏は「新しい文明をつくる参加者たち」と表現しました。
「お客でもなければ、割り込んできた侵入者でもない。参加者である。これが日本人移住者というものの文明史的意味である。日本人はまさに新文明形成の参加者であった」。1978年にサンパウロで開催された基調講演『われら新世界に参加す』での一言です。

人口減少が続く日本で、これから外国に集団移住するような時代はもう訪れることはないでしょう。日本は一見すると東アジアで孤立した小さな島国の一民族に見えますが、南北アメリカ大陸にはルーツを同じとする多くの日系人が暮らします。

日本において、南米へのイメージはまだまだ、残念ながら今も旧時代的です。治安の危険さや貧しさというイメージだけが先行しますが、それはある意味では間違いと言えます。
実際には南米各国は年々発展を続けてインフラも整備されて、概して国民感情が親日的なことからも、とても渡航しやすい地域です。

日系人が融和する南米各国と日本は、これからさらに重要なパートナーとなるためにも、“南米”を知る機会が増えればと思います。

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