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風景写真家・松井章のブログ

戦後・南米移住:敗戦から新天地までの道のり

新天地・南米を目指すまでの道のり


中南米への移住は明治時代に始まりますが、第二次大戦後にも中南米への移住が大きく推進された時代がありました。
戦後復興が進む日本から、なぜ多くの日本人が中南米を目指すことになったのか。
そこには第二次大戦に遡り、そこから歴史に翻弄され続けた人々の姿が浮かび上がります。

先日、NHKで放映された「映像の世紀バタフライエフェクト ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独」では、その背景をとてもよく説明していて、やっと私は海外移住の歴史の一面を把握できた気がしました。

戦後の混乱期に始まる「戦後開拓」


第二次大戦が終わると、海外にいた660万人もの日本人が一斉に日本へと帰還しました。民間人の帰国を「引き揚げ」、軍人・軍属の帰国を「復員」と言いました。
引き揚げで帰国した日本人には、満蒙開拓団として満州で開拓をしていた人々がたくさんいました。

この敗戦による混乱期に海外から人々が一斉に帰国したことから、食糧や職業を始め、あらゆるものが不足してしまいました。
ここで国策として始まったのが「戦後開拓」と呼ばれる日本国内の開拓事業です。
それまで人の手が入っていない地域を新たに開拓・干拓する目的で、約165万ヘクタールの土地に100万戸の人々が入植します。

その中でも現在に残る有名な開拓地は、根釧パイロットファーム(北海道別海町)、上北パイロットファーム(青森県六ヶ所村他)、八郎潟干拓(秋田県大潟村)などです。
営農に成功した地域がある一方で、痩せた土地で農業に合わない場所も多くあり、そのような土地で戦後開拓をする人々には大変な苦労がありました。

もともと大正時代までまったく人が手を付けなかった場所なので、そもそも農業に不向きな土地が多かったのでしょう。長い苦労の日々の割には、なかなか生活や経営は軌道に乗らなったようです。

一方、日本の復興は確実に進み、経済発展へと繋がります。
戦後開拓により開拓された広く平坦な土地は、農地以外の目的で活用しようとする動きが起こります。
たとえば、冷戦の脅威から生まれた自衛隊の前身である警察予備隊の駐屯地として、あるいは原発や空港の用地などへと利用されることになり、苦労の末に開拓した土地を手放す人が多くいました。

戦後開拓に携わったにも関わらず、日本の復興から取り残されてしまった人々が多くいたのです。

戦後・中南米移住の始まり


こうして、1952年から、ブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチン、ドミニカ共和国などへの移住が開始されます。
南米移住をした人のなかには、満州の開拓に参加して、引き揚げ後には戦後開拓をして、さらに三度目の開拓としてブラジルへ向かった人もいたようです。
開拓民の多くは、資材をすべて投入してゼロから始まる人生の大事業です。その挑戦を3度も行った人の気持ちとはいったいどのようなものだったのでしょうか。

沖縄県の戦後:混乱期の行方


同じ時期、沖縄県は、アメリカの統治下にあって、琉球政府は厳しい制限のなかで自治をしていました。
沖縄戦では20万人を超える犠牲者が出て、沖縄は壊滅的な状況下にありました。戦後、沖縄県には約3万3千人の人々が帰還します。復興に向けて人口も急増する一方で、多くの土地はアメリカの軍用地として接収されてしまいました。

当時の沖縄県では人々を養う土地そのものが不足していました。

本州の社会情勢と同じく、沖縄県にもまた、復興から取り残される人々が多くいたのです。

沖縄県からボリビアへの移民事業の始まり


こうした中で、沖縄県でも同様に、海外への移民を推進する動きが生まれます。
すでに北米やハワイへの移民はできない時代でしたので、南米のボリビアが移住先としてアメリカ政府の協力で選ばれました。

本州と沖縄県で、戦後の混乱期の社会的な背景は少し異なるものの、ほぼ同時期に別々に、ボリビア移住の計画が急ピッチに進められることになりました。

沖縄県からボリビアへの移住事業は、1954年から始まり、(うるま移住地から2回の転住を経て)オキナワ移住地が建設されます。また、九州の人々を中心とする移民は1955年から始まり、サンファン移住地を建設しました。
どちらの移民事業も、それから10年以上もの月日をかけて多くの家族が、新天地・ボリビアへと続々と向かいました。

戦後・南米移住に至る歴史から思うこと


中南米への移住から125年以上が経ちますが、明治・大正時代の移住と、戦後の移住では、その姿は大きく異なることがよく分かりました。

戦争とは国だけではなく、人の関係さえも裂くもので、明治・大正時代に先に移住した人々も移住先の国で多くの差別や迫害に苦しんでいました。

戦後に移住した人々もまた、「新天地」を目指す大きな希望を抱いていましたが、現実には戦争の大きな傷跡を一身に背負っていました。
戦後の中南米移民事業には、当時の日本人の悲哀がたくさん含まれていることを知っておく必要を感じます。

私が「開拓」に大きな興味を抱く理由


私が「開拓」という言葉に敏感なのは、幼少の頃に暮らした北海道(道東の北見)の影響は大きいでしょう。
小学校の授業では、開拓団(または屯田兵)の話を聞くことが多く、あちこちで目にする風景もまた同じく開拓団に由来するものでした。たとえば、釧網本線の線路やトンネルもまた、多くの犠牲者を出して築かれた労苦の塊であり、開拓民にとっての悲願でした。

幼少期の自分にとって道東の風景が原風景として染み込む中で、「開拓」という言葉に特別な何かを感じさせるように感性に刻み込まれたのだと思っています。

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