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風景写真家・松井章のブログ

ボリビア日本人移住地訪問記(8)ラパス―100年を超えて受け継がれる日系社会


▲左から、野田エリアナ・ミドリさん、南雲謙太郎さん、秦カルメ ン美津子さん、西澤サンティアゴ篤路さん

目次

ラパス日本人会の訪問

2025年6月、高原都市ラパスで「ラパス日本人会」を訪問しました。1922年に設立された同会は、100年以上にわたり、ボリビアに暮らす日本人・日系人の交流や相互扶助、日本文化の継承を支えてきました。

ボリビアの日系社会というと、サンタクルス県のオキナワ移住地やサンファン移住地を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし今回、ラパスの日系人のお話を聞くうちに、それだけではボリビアの日系史を語ることはできないと、改めて感じました。

▲ラパス市街と聖峰イリマニ(6438m)

標高約3700mにある高原都市ラパスには、農業移住地とは異なる形で形成されてきた、100年以上も続くもう一つの日系社会の歴史があります。
ラパス日本人会に着き、館内のレストランを見ると、約30年前にここで鱒の刺身丼を食べたことを思い出しました。印象としては、当時とほとんど変わっていないように感じました。

▲ラパス日本人会の展示コーナー「日系人ってなに?」

ラパス日本人会の事務所に入ると、ラパスで長く活躍する日系人の皆様が迎えてくださいました。会長の秦カルメン美津子さん、野田エリアナ・ミドリさん、小森ディエゴ豪さん、西沢サンティアゴさん、南雲ケンタロウさんです。

一人ひとりのお話を聞いていくと、同じ「日系人」であっても、それぞれの家族がたどってきた道は大きく異なっていました。
現在、ラパス日本人会の会長を務める秦カルメン美津子さんのご両親は、ラパスでお見合いをして結婚しました。父親はラパスでヤマハの楽器を扱う店を営み、それが後のヤマハ・ボリビア、現在の「ヤマボル」へとつながっていきました。

小森ディエゴ豪さんはラパス生まれです。両親は一世と二世の間に位置する日系人でしたが、ディエゴさん自身は国籍に関する問題から、8歳になるまで無国籍の状態だったといいます。

野田エリアナ・ミドリさんは、祖父が日本人、祖母がペルー人で、その次の世代となる両親はボリビア人です。日本、ペルー、ボリビアという複数の国につながる家族史を持つ日系人です。

南雲ケンタロウさんは長崎県の軍艦島で生まれ、両親とともにサンファン移住地へ渡ったことが、ボリビアでの生活の始まりでした。

こうした一人ひとりの背景を聞いた後、興味深い問いを投げかけられました。
「松井さんは、“日系人”という言葉をどういう意味で使っていますか」
私は、日本から南米などへ移住した人々と、その子孫というイメージを持っていました。
話を聞くと、「移住」を基準として、日本から移住した本人を一世、現地で生まれた子どもを二世、その次を三世と考えるそうです。
ところが、実際の人生はそれほど単純ではありません。母親側から見れば一世、父親側から見れば三世という人もいます。「そういう場合は二世ですか」「1.5世かな」と笑いながら交わされた会話が印象に残りました。
世代が進めば、日本との距離も少しずつ変化していきます。一方、日本で生まれても何十年もボリビアで暮らせば、考え方や感覚はボリビア社会の影響を強く受けます。「日本へ行くと、自分はもう完全な日本人ではないと感じることもある」という言葉も聞きました。
日系人という言葉は、単に血筋や世代を数字で区切るだけでは説明しきれません。そこには、日本とボリビア、二つの文化の間を生きてきた一人ひとりの歴史があります。

ラパスに築かれた日本人社会


▲ラパス日本人会の展示コーナー「ボリビア日本人移住者の足跡」

日本人がボリビアへ入るようになったのは19世紀末にさかのぼります。
1899年、ペルーのカヤオ港に到着した日本人契約移民の中から、その後ボリビアへ移ってきた人々がいました。ペルー南部からプーノ、チチカカ湖周辺を経て、アンデスを越えてボリビアへ入り、ソラタなどラパス県各地へ広がっていったといいます。

そして1922年、31人の日本人によって「ラパス日本人会」が設立されました。
興味深かったのは、その設立目的です。会員や日本人同士の結束だけでなく、「国籍を問わず、個人や団体との親睦を図る」という考えが、100年以上前から掲げられていたそうです。

▲険しい斜面にも家々が張り付くように立ち並ぶ

その後、日本人社会は急速に成長し、1930年頃にはラパス日本人会の会員は約300人に達しました。当時は日系社会の「黄金時代」ともいえる時期で、商業の世界で成功した日本人も多くいました。工場を経営した人、日本企業とボリビアを結びつけた人、行政や金融の世界で活躍した日系人もいたそうです。

ラパスの日系社会の特徴は、戦後に建設されたオキナワ移住地やサンファン移住地とは、その成り立ちが大きく異なることです。
サンタクルスの日本人移住地は、日本とボリビア両政府による計画移住として形成されました。一方、ラパスの日系社会は、それ以前から個人の判断でこの地へやって来た人々が、商売を始め、自分たちで日本人会を組織し、助け合いながら築いてきました。
日本政府から十分な支援を受けられない中、自分たちの力でボリビア社会に根を張っていったのです。その過程で、生活の基盤をボリビアに置き、ボリビア国籍を選んだ人も多くいました。
「日本人は働き者で、約束を守り、責任感がある」
ラパスで暮らした日本人たちが築いたこうした評価が、戦後、日本人農業移住者を受け入れる際の信用にもつながったのではないか、という話も聞きました。

戦争で断ち切られた日系社会


▲サガルナガ通り

しかし、ラパスの日系社会がそのまま順調に発展していったわけではありません。
第二次世界大戦が始まると、状況は一変しました。ボリビア国内でも日本人に対する圧力が強まり、一部の日本人はアメリカの強制収容所へ送られました。
カルメンさんの父親も、身の危険を避けるため、しばらく地方に身を隠して暮らしていた時期があったそうです。
遠く離れた日本とアメリカの戦争が、ボリビアで暮らしていた日本人一人ひとりの生活にまで直接影響を与えていました。
戦争は、ラパスで築かれつつあった日本人社会を大きく揺さぶりました。しかし戦後、日本人会は再び活動を始め、次の世代へとつながっていきます。

サンファン移住地の厳しい出発

この日、特に印象に残ったのが、サンファン移住地出身の西沢さんの話でした。
計画移住と聞けば、日本政府の支援を受けながら整然と新天地を開いていったような印象を持つかもしれません。しかし、当事者から聞く現実は、ずっと厳しいものでした。
「最初から十分に支援されていたわけではないんです」

西沢さんによれば、サンファンに入植した人々のうち、最終的には約3分の2が移住地を離れたそうです。日本へ戻った人もいれば、ブラジルやアルゼンチンへ移った人もいました。
初期には食料にも事欠き、何週間もトウモロコシを焼いて食べ、それでしのいだ若者もいたといいます。
西沢さんの母親は、最初期の「西川移民」のグループでサンファンへ入りました。父親はその数年後、移住協定後のグループとして入植し、二人はサンファンで出会い、結婚しました。
当初、ボリビア政府から一世帯あたり約50ヘクタールの土地が与えられたそうです。その後、移住地を去る人々の土地を残った家族が買い取り、農地を広げていきました。
そうした苦難を経て、サンファンはボリビアの農業に大きく貢献する地域へと成長しました。米や鶏卵などの生産で重要な役割を担い、一時期はボリビアで流通する卵のかなりの割合がサンファンから供給されていたといいます。

成功した現在だけを見ていると、その背後にあった長い試行錯誤や、移住地を去っていった人々の存在を忘れてしまいます。今回の取材で、移住史とは成功者だけの歴史ではないことを強く感じました。

1962年にサンファンで生まれた西沢さんは、20歳頃にラパスへ移り、大学を卒業しました。その後、JICAの研修制度を利用して日本へ留学し、中央大学大学院で修士号を取得しました。現在は弁護士として活動する一方、ボリビアの銀行の取締役も務めています。その銀行では、7人の取締役のうち西沢さんを含む2人が日系人で、さらに監査役にも日系人がいるそうです。
移住者の子どもとして生まれた日系人たちは、親の仕事をそのまま受け継ぐだけではありません。教育を受け、専門職や企業経営、行政などへ活動の場を広げ、ボリビア社会の一員として新しい役割を担っています。


▲ラパス日本人会の活動紹介パネル

次の世代へ

一方、ラパス日本人会では、日本語学校、運動会、野球、テニス、盆踊り、カラオケ大会など、長年にわたってさまざまな活動が続けられてきました。孤児を支援する施設を運営した時代もあり、創立50周年には会員たちが日本庭園を造り、ラパス市へ寄贈したそうです。
現在も日本語学校は日本人会館で続いています。また2005年に始まった「日本祭り」は規模を拡大し、多くのボリビア人が日本文化に触れる場となっています。

北部のアマゾン地域に移住した初期の日本人たちは、「シリンガ」と呼ばれるゴムの木から樹液を採る仕事に従事していました。
その後、ゴム景気が終わると、ラパスなどの都市へ移住した人も多くいました。都市で商売を始めた人、アマゾンに残って働き続けた人。話を聞けば聞くほど、「ボリビアの日系人」という一つの言葉の中に、実に多様な人生があることが分かってきます。

▲ラパス日本人会の長い歴史をまとめた貴重な記録

ラパス日本人会の方が、こんな言葉を口にしました。
「どの町にも、それぞれの歴史があります」
まさにその通りだと思います。

ラパスにはラパスの歴史があり、リベラルタ、コチャバンバ、そしてサンタクルスのサンファン移住地やオキナワ移住地にも、それぞれ異なる日系人の歴史があります。

今回の訪問で見えてきたのは、「日本人がボリビアへ移住した」という一本の歴史ではなく、一人ひとりの選択と人生が幾重にも重なり合い、現在の日系社会につながっている姿でした。


▲今では、ロープウェイ「テレフェリコ」が市民の重要な足となっている

100年以上にわたって受け継がれてきたラパス日本人会。その歴史は、過去を保存するだけのものではありません。日本とボリビア、二つの社会をつなぎながら、今も日系人とともに歩み続けています。
(つづく)

ボリビア日本人移住地訪問記:オキナワ移住地とサンファン移住地を訪ねて

ボリビア日本人移住地訪問記(1)オキナワ移住地とサンファン移住地

ボリビア日本人移住地訪問記(2)サンタクルスからサンファン移住地へ

ボリビア日本人移住地訪問記(3)サンファン移住地にて

ボリビア日本人移住地訪問記(4)オキナワ移住地にて①

ボリビア日本人移住地訪問記(5)オキナワ移住地にて②

ボリビア日本人移住地訪問記(6)サンフアン移住地の再訪

ボリビア日本人移住地訪問記(7)オキナワ移住地の再訪

ボリビア日本人移住地訪問記(8)ラパス―100年を超えて受け継がれる日系社会

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