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風景写真家・松井章のブログ

ボリビア日本人移住地訪問記(5):オキナワ移住地にて《加筆版》

目次

オキナワ移住地にて②

苦難の末にジャングルを拓く:オキナワ移住地

オキナワ移住地を訪れた2024年6月は、開拓から70周年という節目の年でした。

1954年に始まるオキナワ移住地の歴史は想像を絶する苦難の連続でした。第二次大戦後、戦災で激しく疲弊していた当時の沖縄県から、この年、約300家族が入植して「うるま移住地」を建設しました。日本から長い船旅を経てブラジルに上陸、さらに鉄道に乗り換えて、ようやくたどり着きました。

ボリビア政府との協定により提供された「うるま移住地」は今のオキナワ移住地よりも、もっとグランデ川の上流にありました。しかし、この移住地は、唯一の都市であるサンタクルスから遠く、何より道路も生活基盤も何もないジャングルの中でした。さらに、低湿地帯に位置していたため、生活は過酷を極めたそうです。そのような生活のなか、謎の風土病が蔓延して亡くなる方も出てしまいます。翌年の1955年には、ボリビア政府との交渉の末、この移住地を放棄することになります。

代替の移住地として用意されたのは、現在のオキナワ移住地の近くにある「パロメア(パロミティージャ)」と呼ばれる地域でした。うるま移住地を脱出して、一旦はこの地に住み始めましたが、ここも農業の将来性に限界があることから、一時的に腰を落ち着けるだけで、再び別の場所に移住地を建設することになります。

1956年、ボリビア政府や日本の支援機関の交渉の末に、よりサンタクルスに近い場所に、現在の「オキナワ移住地」を建設しました。この土地もまた、道路も設備も何も無いアマゾンのジャングルでした。再びゼロから移住地を建設することになったのです。

移住地を2回も変更して、その度に森を切り開くことは、どれほど大変なことであったでしょうか。しかし、初期の2つの移住地での経験を経て、コミュニティはより団結して、きっと現在の繁栄を支える礎となったに違いありません。稲作の成功などを通して、人々の生活はようやく少しずつ安定するようになりました。
その後、人口増加により、60年代にコロニア・オキナワ第2移住地、70年代には第3移住地も建設されました。3つの移住地を合わせると、面積は約2万ヘクタールにも上ります。

オキナワ第一日ボ学校


比嘉徹さんの農場で半日過ごし、デイケアサービスで皆さんとお昼ご飯を頂いた後で、オキナワ第一日ボ学校へ行きました。午後も、JICAの青年海外協力隊のの河内華さんと、サンタクルス在住の日系人・黒岩幸一さんが一緒に案内してくれました。
学校では午後の授業が始まっていたので、子供たちが勉強しているところをそっと覗かせていただきました。日本語の授業を子供たちは一生懸命に、目が合うとすぐに笑顔で応えてくれたのが印象的です。


▲日本語を教える授業
オキナワ第一日ボ学校は、1987年に自分たちの力で日本語教育を行いたいという思いで始まりました。午前はスペイン語での教育、午後は日本語の教育がされています。また、沖縄文化の継承にも取り組んでおり、三線やエイサーなどの沖縄の伝統舞踏や音楽を授業や行事に取り入れています。
現在の生徒数は約130名で、その内、日系人が約3割、ボリビア人が約7割です。時代とともに、オキナワ移住地における人口構成と同じように、日系人の生徒の割合は減ってきているそうです。そのため日本語講師を雇うことも難しくなり、日本語教育の運営も厳しい状況です。実際に、各家庭でも日本語を使用する割合は小さくなり、日本語を使用する場所も無いことから、若者の日本語力が上がらないのが現状です。

コロニア・オキナワで出会った人々

琉球文化の継承


オキナワ第一日ボ学校を出て、すぐ近くにある文化会館へ再び行きます。琉球舞踊の写真を撮影するために、琉球國祭り太鼓の新垣美奈さん、琉球舞踊の安里三奈美さん、三線を演奏する比嘉悟が集まってくださいました。
文化会館の前で撮影すると、その光景はほとんど日本にいるような感覚です。はるか遠いボリビアの大地で、70年を経て、今も沖縄の文化を大切にしていることがひしひしと伝わってきました。

屋良商店


その後、メインストリート添いにある屋良商店に向かいました。食料品を中心に扱うお店で、日本の食材もたくさん販売されています。カレーや昆布つゆ、調味料など、一通りの日本食は揃えられています。これらの商品は、ブラジルから輸入しているそうです。
お店を経営する屋良恵さん、屋良千恵子さん、そして長く従業員として勤めるエリアドラ・アナミさん、そしてサンタクルスで建設会社を経営する諸隈幹雄もいらしたので、一緒に記念写真を撮りました。

新垣さんご家族


次は、すぐ近くにある新垣眞永さんのご自宅を訪問しました。85才(2024年6月訪問時)の新垣さんは25才のときに、子供を連れて家族でこの地に入植しました。当時、ヤンマーの脱穀機なども日本から持ってきたそうです。ジャングルに囲まれて車もまともに通行できなかったために、近郊の都市サンタクルスに行くには徒歩で3日もかかったそうです。釣りを好んでいたので、ときには500キロも移動してアマゾン奥地に釣りも行ったりと、苦労の中にもこの地ならではの豪快な喜びを感じさせる話もありました。入植当初は困窮を極め、食用のバナナや、アブラナ科の根菜であるマカを天ぷらにして食べることもあったそうです。

新垣さんのお話を聞くうちに家族がどんどん集まりました。新垣純エリック・チアゴさん、新垣慶レーネルさん、新垣愛希さん、新垣久美子さん、新垣眞ロランドさん、新垣まゆみさん、新垣善ミゲルさん、新垣愛結さん。今では子供9人、孫は16人もいる大家族です。
大きな自宅の庭には木が生えています。昔は小さな木であったそうで、ご家族を象徴しているように思い、木と一緒に皆さんの集合写真を撮らせていただきました。

故・中村侑史さん


それから、再び文化会館に戻り、前・オキナワ日本ボリビア協会・会長の中村侑史(2025年8月にお亡くなりになりました。ご冥福を心よりお祈りいたします)さん、事務局長の比嘉智さんにご挨拶させていただきました。中村会長からは直接、入植当時のお話を聞くことができました。

みなさんが口を揃えて言うように、ここに辿り着いて目にしたジャングルは想像とは全く異なる過酷な環境で、ただただ一日を生きるしかなかったということです。電話はもちろんないので、遠く離れた日本政府に何か言うことさえできず、「ただ黙っているしかなかった」という心境を語っていました。
中村さんは長く日本ボリビア協会のために尽力されていますが、なかでも特に「道路整備」にはとても注力しているそうです。日本政府の支援はとても重要です。

入植当初は、自分たちで切り開いた道は、雨季には泥沼化して孤立するほどに交通条件は劣悪でした。そうした中で、日本政府からの本格的な支援が始まるのは、1960年代後半からです。サンタクルス市とコロニア・オキナワを結ぶ道路の整備に、政府開発援助(ODA)が投入されるようになります。道路・橋の整備は、農産物(大豆・綿花・米)の輸送には直結するので、これにより移住地の生活は安定へと向かいました。1980年代からは、JICAによる支援として、道路などのインフラ整備だけではなく、農業や教育、福祉の指導などが始まります。コロニア・オキナワの農産物はボリビアに大いに貢献をするようになりましたが、その背後には日本による長期的な支援があったのです。

中村さんからは「あと3時間は話せるよ」とのことでしたが、丁重にその場を辞して、次はオキナワ移住地の象徴であるCAICOへ向かいました。

CAICO(コロニア・オキナワ農牧総合協同組合)


▲CAICO(コロニア・オキナワ農牧総合協同組合)
町の入口の方に見える大きな施設がCAICO(コロニア・オキナワ農牧総合協同組合)です。1960年代の後半は、洪水や干ばつによる被害が大きく、苦しい時代が続いていました。そのころ、サンタクルス県では綿花栽培のブームが起きていました。オキナワ移住地も試験栽培の末に綿花栽培を導入することになりますが、その運用にはコストがかかるため移住地が足並みを揃えて組織化する必要がありました。そうして結成されたのが、CAICO(コロニア・オキナワ農牧総合協同組合)でした。現在まで、CAICOはオキナワ移住地の農業の柱として欠かせない組織になっています。取り扱う主な生産物は、大豆・米・小麦・トウモロコシ・ソルゴー、そして畜産物などです。


敷地内には、大きな工場や倉庫が並んでいます。作物や肥料などのラボも運営しているそうです。工場に案内いただくと、多くの人が働いていました。この組合を通して、外国ともビジネスを行うようになり、組合に加入する農家の経営に大きく貢献しています。
オキナワ移住地における農業の中心を成す組織なだけではなく、共同体の象徴的な存在となっています。

CAICOを出ると、もう太陽は斜めに傾いています。緯度が低いボリビアでは、日没の時間は年間を通して18時前後です。暗くなる前にサンタクルスに着こうと、オキナワ移住地を出発しました。
サンタクルスから、2つの移住地に向けて出発した時とは異なり、今では目に入る建物や道路に、人々の物語や息遣いを感じられるような気がしました。

※オキナワ移住地編の執筆では、JICA青年海外協力隊の河内華さんに細かい情報の確認などでご協力いただきました。ありがとうございます。
(つづく)

「ボリビア日本人移住地」関連記事集

松井章写真展「ボリビア-オリエンテ地方と日本人移住地」

ボリビア日本人移住地訪問記(1)オキナワ移住地とサンファン移住地

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